剣術修業記

現代社会における剣術継承の意義

2021年5月26日

2020年から、社会はコロナ禍で、これまで普通に行っていた生活が著しく制限されるようになってしまいました。

それは、我々のような古武道を鍛練する人間にも無縁ではありません。

緊急事態宣言の発令によって、都内の行政施設は軒並み利用が制限され、これまで通りの定期的な稽古を行うことができなくなってしまいました。他の稽古場も検討しましたが、剣術の性質上天井の高さによって制限されてしまうため、代替施設もなかなかありません。

そのため、不本意ながら稽古は不定期で行い、緊急事態宣言の内容次第で開催の可否が決まってしまう状況です。古武道流派の多くにとって継承活動には悪影響が出るだろうと思います。

何百年という伝統を持つ文化であっても、このような予測できない社会の混乱によって、簡単に途絶えてしまうのかもしれません。

もちろん、私たちは可能な範囲で稽古を続けて、個人としての鍛練も組織としての継承活動も続けていく意志を強く持っています。

しかし、簡単に途絶えかねないこの古武道という文化の担い手としては、大きく変わっていく社会の中で、日常的に役立つことの少ない古武道というものをなぜ継承していく必要があるのか、現代社会にとってどういう意義があるのか、ということを明快に説明できるようになっておくべきではないか、という気がしています。

強い興味を持つ個人が来てくれることを頼るだけでは、今後何十年、何百年と継承を続けていくことは難しいように思うのです。

そこで、現代社会において剣術・古武道を継承していく意義について、私なりの考えをまとめてみます。

1章:伝統と社会の変化

そもそも、私が継承する二天一流という流派は、宮本武蔵先生によって創始され400年近くの間継承されてきたものです。

その間、武士による平和な統治の時代(江戸時代)を経て、社会的な混乱から武士の時代が終わり、日本社会は近代化を進めることになります。剣術の実用的な役目はなくなり、帯刀することもできなくなります。そして、個人が暴力を行使することも、戦うことも許されなくなり、現代社会に至っています。すなわち、現代では剣術・古武道というものの実用的な価値はほとんどないわけです。

このような時代的変化の中で、多くの継承者たちは近代社会における武術・武道の役割を見出そうとしてきたのだと思います。その中で、健全なスポーツ競技として成立していったもの(剣道、柔道、多くの空手道など)もあり、また様式美や精神修養の意義を理念として、変化していった武道もあるでしょう。

しかし、そういった社会の変化に適応していく潮流から距離をとって、あくまで伝統を守ることに集中した古武道諸流派もありました。その中の一つが兵法二天一流です。

競技化された武道には、スポーツと同じようにそれ自体を競技として楽しむという役割で社会に根ざしており、またそれで食べていく人も一部に存在します。

では、競技化の流れから距離をとった、古武道諸流派にはどういう意義があるのでしょうか。

それは、「伝統」というものの意義を考えると、明らかになると思います。

2章:伝統を継承することの意義について

2-1:伝統文化の価値

古武道のような伝統的な文化は、実用的な意味では社会に役立ちません。

それは、伝統的な文化というものの多くは、ある時代、ある社会の中で生まれた文化的な産物を固定し、社会の変化とは無縁のものとして守られていくものだからです(もちろん時代の変化の影響を全く受けないことはないでしょうが)。社会の変化からあえて距離をとっているのですから、実用的な意味で役立たなくなっていくのは当然です。

しかし、その時代、その社会だからこそ生まれた「技」や「精神」というものは、一度失われれば二度と復興することができないでしょう。

例えば、古武道であれば、武士たちが、何百年もかけて、文字通り命懸けで磨き、後世に残そうとしてきたのが技、型として残っているのであり、それは真剣勝負が日常である当時の特殊な社会だからこそ生まれたものです。命を奪われることがほとんどなく、日常的に帯刀することもない現代社会では、もう生まれようがありません。

さらに、日本の武道の特徴としては、その殺し合いの技の追求にも、一つの「道」を求め精神的な高みを追求したことでしょう。

それも、命懸けの戦いが日常だった当時の社会だからこそ生まれた文化なのです。

そのため、古武道の技の中には、現代人が生涯をかけても身につけられないほどの、精妙な技の結晶や、精神の高みがあるのです。

このような技、精神は、「現代では役立たないから」「実用的ではないから」と誰も継承せず途絶えてしまえば、二度と同じものを取り戻すことができなくなります。

そのため、伝統を守ることは非常に大事で、継承者の責任は重大であると私は感じています。

2-2:理性の力への過信

しかし、これだけでは「伝統は守るべき」という主張でしかなく、現代社会における意義の説明にはなっていません。

そもそも、社会に必要なのは実用的なものだけなのでしょうか?

経済的な低成長、少子高齢化といった現象から、これからの日本社会の行く末を不安視する方は現代では少なくないと思います。また、産業構造の高度化やグローバリズムの進展からも、社会はより競争的になり、生きづらさを感じている方も少なくないでしょう。

このような余裕のない、希望の少ない社会では、どうしても現実主義(リアリズム)的な視点で価値観が形成されてしまうものではないでしょうか。事実、人間の能力をまるで機械のように「生産性」と言ったり、人間を商品と同じマーケットメカニズムの上で考えることが、すでにビジネスの場では当然のことのようになっているように思います。また、本屋にも、インターネット上のメディアにも、「厳しい社会をいかにサバイバルするか」という問題意識から書かれたノウハウ本・記事が多く見受けられます。

このような社会では、どうしても実用的な、すぐに役立つものを重視し、すぐに役立たないもの、さらに言えばお金にならないものは切り捨てるような価値観が広がってしまうものだと思います。

ここで注意したいのが、「実用的」「すぐに役立つ」「お金になる」というのは、現代人が、現時点において持つ「理性の力」だけでジャッジするものであるということです。

以前、ある著名な起業家が寿司職人の技を見て「機械にさせた方がいいし修行なんて無意味」と言った発言をして、議論になったことがありました。これはまさに、自分の持つ理性の力(ここでは判断力)を過信し、自分がよく知らないことまでも、ジャッジして簡単に切り捨ててしまう態度が現れていると思いました。

そこには、自分の理性が及ばない領域に対する想像力が欠けています。

確かに、人間は理性の力で科学や文明を発達させてきましたが、個々人の持つ理性の力には限界もあるものです。

個々人の持つ判断力も想像力も、現代という特殊な社会で生活する中で形成されたもので、空間や時間を超えて力を持つものではないでしょう。それを、現代が革新的で最も進歩した時代だからと、過去に形成された文化のすべてを簡単に評価できる、その実用性や「役立つ」かどうか判断できると考えてしまうのは間違っており、間違った万能感であると思います。

例を挙げれば、古代インドから続く修行法が心身の健康に役立つということで、近年ヨガは非常に大きなブームになりましたし、少し昔には、スペースシャトルの外側部分の材料に、日本の昔から伝わる瓦の製造方法が利用されたこともありました。伝統的な文化が、どういうきっかけで「役立つ」ことになるかなど、現代人の想像力を超えた問題だと思います。未来のどこかの時点で、古武道のような文化も再評価され、注目を浴びることがないとは言えないのです。

グローバリズム、資本主義が支配的になり、世界は経済的に、社会的に、仕事や生活など広い領域で画一化、均質化が進んでいます。伝統的な文化が消失してしまう危機は、日本の古武道の世界に限らない世界的な現象です。しかし、世界で文化が均質化し多様性を失えば、将来のどこかの時点で、過去の文化が再び日の目を浴びる機会も失ってしまいます。

文化に多様性があるからこそ、将来のどこかの時点で再評価され、もう一度「役立つ」ようになるのです。

まとめ:武道という伝統文化を継承する意義

とても大きな話になってしまいました。

整理すると、そもそも伝統的な文化というものは、現代人がその実用性や有用性を簡単にジャッジできるようなものではないということ。そして、剣術という文化には、特殊な武士社会だからこそ生まれた技や精神の高みが結晶化されており、一度失われれば取り戻すことができないということ。この理由から、剣術・古武道という文化も、文化の一つとして残していくべきであると、私は考えています。

もちろん、武道を鍛練する個々人は、学ぶ楽しさ、技を追求する面白さ、精神面のトレーニングなど、それぞれが独自の目的を持って学べばいいと思います。しかし、剣術・古武道という文化全体としては、個々人のレベルとは別に継承していくべき理由、意義をしっかり考えていくことが大事であると思っています。

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