武道の理論学習記

「夢講義」を全巻通読して‐「人間とは何か」から踏まえた技と頭脳の鍛練

2021年9月3日

 去年(2020年)の年末くらいから二天一流の鍛練体系についてまとめた論文を書いていたのですが、書く作業を進める中で自分の理論面での未熟さをあらためて感じました。そこで、兵法二天一流玄信会ではおなじみの南郷継正先生の著作を読みなおそうと思い、「夢講義」シリーズ全6巻を通読しました。これまでも何度も読んでいましたが、今読み返すとあらためて多くの学びが得られたため、その内容を簡単に振り返りたいと思います。

1章:剣術修業者が「夢講義」から学ぶ意義

1-1:「夢講義」で説かれていること

 そもそも「夢講義」シリーズとは、武道の理論・哲学を長年に渡って研究されてきた南郷継正先生が、主に認識論を題材にして説いているシリーズです。

 認識論とは人間の頭脳の働き(アタマ=理性の働き、ココロ=感性の働き)について学ぶ学問であり、一般的には哲学の一分野として知られているものです。しかし、このシリーズを読めばわかる通り「夢講義」の認識論は、一般的な哲学の一分野としての認識論から、心理学までを含む学問領域として論じられています。

1-2:武道家が「夢講義」を学ぶ意義

 このような認識論の著作を、武道家が説く意味が分からない、武道を修業する人間が読む必要性も分からない、というのが一般的な考え方かもしれません。

 しかし、実は武道と認識論には大きな関わりがあるのです。

 そもそも、「武術」は、広く言えば人間が創出してきた、闘いにおける技(武技)を極めるものです。闘争のための実体面の技を極めるのが、武術です。これに対して「武道」は、実体面の技を極めることに加えて、観念的な技(極意、悟りなど)を極めることを目的とするものです。

 「観念的な技」とは、古の剣豪が『五輪書』などにあらわしたいわゆる「極意」「悟り」のことですが、武技が身体の働かせ方のある面での究極的なものだとすれば、極意とは心(観念)の働かせ方のある面での究極的なものなのです。その究極的な心の創り方、働かせ方が「極意書」といった形で書かれているわけです。それが、古の剣豪らが書いた『五輪書』『兵法家伝書』『天狗芸術論』『猫の妙術』などの著作なのでしょう。

 この心(=観念)とは、人間の認識の働きの一つですので、認識論の対象となります。そのため、武道家は心の働かせ方を追及するためにも、認識論を学ぶ必要があるのです。

 このような「極意」といった古の剣豪らが到達した精神的境地は、すでに多くの現代の武道書でも説かれているものです。しかし、そのほとんどは現代人の視点のまま「私はこう思う」「こう解釈する」というレベルのものでしかなく、個人の解釈に任されてしまっています。そのため、それを学問的に追及する必要があるわけです。その手法として認識論があるのです。

 さらに言えば、我々のような伝統的な武道を修業する者が認識論を学ぶべき理由には、流祖武蔵先生が書いた『五輪書』をはじめとする著作を、正しく読んで理解し、それを日々の鍛練に活かすためでもあります。この点については、今後詳しく書こうと思います。

 次に「夢講義」シリーズを通読して、今回学んだ主な内容をまとめます。

2章:武技とは「労働」の一種である

 まず、武道の技(武技)というものを広く捉えると、哲学的な意味での「労働」の一種であり、本能に基づかない人間ならではの行為であり、それゆえに文化として重要なものであると理解することができました。

2-1:労働とは

 武技が労働の一種であるということを説明するために、まずこの「労働」とは何かという点から押さえておく必要があります。そもそも、哲学的な意味での「労働」とは、いわゆる「肉体労働」などの「仕事」や「作業」という意味ではありません。もっと広く、人間が行うあらゆる行為が「労働」に含まれてきます。定義的にまとめると、人間が外界にある何らかの対象に対して目的的に働きかける行為は、すべてが「労働」です。つまり、「料理」「コミュニケーション」「芸術」「建築」「農業」などあらゆる人間の行為は「労働」であると言えます。

 そして、「労働」とは人間にしかできない行為であるという点も重要です。そもそも人間は、進化の過程で(特に樹上生活を送ることができたおかげで)本能に基づかない認識を獲得することができました。人間以外のあらゆる動物が外界を感覚器官を通じてそのまま像として反映し、その反映に従って本能的に生活するのに対して、人間は反映された像を脳の中で自在に歪めたり、修正したり、創造したりできるようになりました。このような認識を現実(外界)の中に創り出す(対象化する)行為が、「労働」です。つまり本能だけではない認識活動ができるようになったことで、本能によらない活動(労働)ができるようになったのです。その結果、言葉を創造し、農耕をはじめ、都市をつくり、文明を発達させ、科学技術によって大発展することができました。

2-2:武技は労働の一形態

 「夢講義」を再読し、武道の技というものも、この「労働」の一種として広く押さえていくことが重要だと思いました。

 繰り返しになりますが、人間が目的意識を持って行う行為は「労働」です。それも「家」「料理」「芸術作品」のようにモノとして外部に創られるものだけでなく、「身体の動かし方」「技」「教育」なども「労働」によって生み出されるものは「労働」です。これらは物質的に存在するものではありませんが、やはり人間が目的意識を持って創出するものだからです。

 そして、人間は様々な面で「身体の動かし方」を工夫して創り出し、それを周りの人に伝え、歴史の中で発展させてきました。工芸の技、調理の技、絵の描き方などはもちろん、立ち方、座り方、歩き方、寝方などもそうです。人間の「身体の動かし方」は、日常的なものから、高度な職人的技まで、そして武道の技まで、すべて本能に基づく動物的な動きとは異なるもので、創造されたものです。文化的な創造物です。

 武道の技というものも、「労働」の1つの形態として発展しました。最初は道具を使ってただ叩き合う、殺し合うというものだったのが、少しずつ「こういう武器の方が殺傷力がありそう」と工夫され、また「この武器はこう使った方が速く振れる」「こう使った方が攻撃力が高い」というように気付き、その効率的な扱い方が何世代にも渡って継承され、「武術」というものになっていったのでしょう。その中で、よりすごい技や、技を身に付ける鍛練体系を発明した人々が、あたらしい流派をおこし、それが○○流、という武術流派のもとになったのだと思います。歴史の中で、「労働」の1つの形態としての「闘い方」が技として結晶していき、精密な身体の使い方ができるようになり、それが武技、武術流派として発展していったのだと、大きな視点から捉えていくことが重要です。

2-3:「労働」の具体的な形態は地域差がある

 このように発展してきた武技ですが、現代、世界的に見て精密な技が残っている国・地域は限られています。それは、武技を含め「労働」の具体的な形態には地域差があるためだと思います。

 技の中身、つまり労働の形態は、人類が住む周囲の環境によって規定されるため、地域差が生まれます。原始的な文明段階であれば、その地域で取れる動物、植物の種類、気候、土壌の質、採掘できる資源など。日本であれば、海に囲まれ、山が多く、四季がはっきりしている、といった環境によって労働の形態が規定されてきたのでしょう。この地域差が、それぞれの文明で生み出された家の形、土器の形、芸術、文字、武器などの違いになったのです。文明の発展と共にこのような地域差が、その国・地域固有の文化として独自なものになっていったのでしょう。では、日本で精密な武術・武道が発展したのはなぜなのでしょうか。

 日本ではそもそも、さまざまな分野で精密な技を発展させ、継承してきた文化があります。それが職人技であり、芸道における技であり、武術・武道の技です。労働の形態にもさまざまなレベルがありますが、その中でも身体の使い方を極めること(技)を大事にしてきたのが、日本の文化の固有な面な1つなのだと思います。このように精密な技を大事にする文化は、やはり日本固有の条件から生まれたものであり、また行為そのものを修業・修行として捉える「道」の思想が発展したことと、表裏一体であろうと思います。「道」の思想については、いつか調べて別にまとめたいです。

 武術・武道の発展という面から見れば、精密な技が発展したのは、まず日本の島国であるという特性があったからでしょう。島国であり、他国から攻められることが少なく、自分の肉体を使った闘い(白兵戦)が求められる環境が続いたことがその1つです。大陸の高い文明の影響を受けていれば、武器・兵器が早いうちに発展し、個々人の肉体的な技を競い合うような環境は崩されたでしょう。そうなれば、武技そのものを極めるのではなく、武器・兵器を発明する技術、駆使する技術が発展することになり、武技そのものを極める文化は廃れていったのだろうと思います。武器や闘いの形態自体はそれほど発展せず、槍や刀を使った白兵戦の中で、個々人が技を極めることで勝つことが求められた、そういう環境が続いたために、個々人が技を追求し、習熟し、その技を継承していくことができたのだと思います。

 その大きな闘い方(兵法)の歴史の中の1つの流れとして、戦国時代から江戸時代にかけて剣術が主流になっていきました。その剣術の歴史の中でも、さまざまな武器の1つとして刀を使う、馬上で扱う、といった限定的な使い方から、両手で一刀を把持して扱う使い方が生まれました。これが、日本の剣術の独自性であり、この過程があったからさらなる技の発展、精密化があったのではないかと思います。そして、それをさらに発展させて二刀流をメインに創出したのが宮本武蔵の二天一流であった、と私は捉えています。

 このように、まずは自流の歴史も、生命、人類の大きな歴史の流れの中で捉えていく、位置づけていくことが大事です。このような考え方を身に付ける上で「夢講義」は非常に良いシリーズだとあらためて思いました。

2-4:武道の鍛練で怪我をしないために「労働」の形態から考えること

 「夢講義」シリーズを読むことで、武道の鍛練を何十年と続ける中で「怪我をしないためにはどうしたらいいか」「上達し続けるためにはどうしたらいいか」という疑問も、解消する力を身に付けられると思いました。

 そもそも、武道を何年、何十年と続けると怪我をしてしまう方は多いです。これはスポーツでも同様ですが、なぜこのように怪我をしてしまうのでしょうか。もちろん、単に「身体の使い方が悪かったから」という理由もあるでしょう。しかし、どれだけ身体の使い方が良かったとしても、効率的なものであったとしても、何十年も鍛練を続ければ怪我をしてしまうものなのです(少なくとも理論的には)。

 なぜ武道の鍛練を続けると怪我をしてしまうのでしょうか。これはスポーツや、その他の高度な「労働」でも同様です。続けるほど、技を極めるほど怪我をする可能性があります。

 この問題も、「夢講義」で説かれているように「人間とは何か」から考える必要があります。人間と動物の違いは、動物は本能によってのみ活動するのに対し、人間は本能によらない活動(労働)を行うものであるということです。しかも、人間は進化の歴史の中で、本能によらない活動の領域を拡大し続けてきたため、今ではほとんど本能によらない活動のみで生活していると言っても過言ではありません。

 別の言い方をすると、人間は常に、人間が歴史の中で創ってきた「動き」「姿勢」を、生活の中のほとんどの時間で取り続けているということです。たとえば、現代人のオフィスワーカーのほとんどは、だいたい決まった形のデスク、イスを使い、パソコンの前に座り続けてタイピングして生活しています。10万年前の人間は、もちろんこんな生活はしていませんでした。現代人よりもっと本能的に、つまり楽な座り方をし、走り方をしていたことでしょう。このように「労働」つまり働き方だけでなく、日常的な動き方、姿勢などはすべて人間が文化的に創造したものであり、本能に基づくものではないということです。文化的に創造した「動き方」「姿勢」に身体を変形させて使い続けている、というのが私たちの生活の日常であるということです。

 このように、身体を変形させて(歪ませて)使っているために、私たちは身体の歪みを整えることも生活の中に取り入れなければなりません。文明が発展するにつれて、私たちの労働の形態は本能的なものから離れていきました。動物はどれだけ動いても、その動物が進化の中で創ってきた身体の構造に合った形でしか取りません。そのため、体力的に疲れることはあっても身体に歪みが生じることは一般的にはありません。一方、人間はその社会に合わせた労働の形態(動き方)を取らなければならないため、その分、身体を変形させ続けて生活しています。この変形は、日常的なものであれば「身体をしっかり伸ばして寝る」「軽い運動をする」といったことで修正されます。しかし、生活の中でしっかりと歪みを修正することをしないと、その歪みが蓄積され、簡単には治らなくなるため、「整体」といったことが必要になるのだ、ということでした。現代人の場合は、特に全身をバランスよく使わず決まった姿勢を固定し続ける、身体の一部しか動かさない、といった「文明的」な生活をしているため、かえって歪みが蓄積されやすく、それだけに整体、フィットネス、ヨガが流行することになっているのでしょう(特に都会生活において)。

 ここまでは、あくまで生活の中における変形・歪みとその修正の話でした。ここと、武道の怪我の話も繋がってきます。

 繰り返しになりますが、武技というのは「労働」の一形態です。しかも、人間が創造してきた身体の動かし方という技(労働)の中でも、特に精密さや身体への負担が大きいものです。そのため、武技を鍛練するということは、それだけ身体を変形させて使い続けるということでもあります。どれだけ素晴らしい技であっても、精密で合理的な身体操作であっても、それは本来の人間の身体構造を変形・歪めて使うものなのです。このような修業を続けると、人間の身体は少しずつ、目に見えないレベルで変形していきます。具体的には、空手家の拳が「突き」に特化して変形するとか、達人の足指が変形していたりすることです。これは目に見えるレベルのものですが、目に見えないレベルの変形が全身に蓄積されていきます。

 従って、武技を鍛練すればするほど、身体の中には武技に特化した形で発展する部分と、そうではない部分が生まれていきます。空手家であれば空手に特化した形で、剣術家であれば剣術に特化した形の身体になっていくということです。その結果、発展した部位と、相対的に発展しなかった部位の差が生まれていき、そのギャップが怪我の原因になるということです。人間がそもそも動物である、ということを無視して、「武技」という労働の一つの形態のみを鍛練し続けるがために、身体が良くも悪くも変形し、その結果としての怪我になる、ということです。

2-5:「人間体」を鍛練する意義

 このように、武術・武道の鍛練において単に技の練習ばかり何十年も続けると、変形が蓄積されて身体の体系性に歪みが生じ、怪我をしてしまいます。また、別の言い方をすれば、上達しなくなってしまうということでもあります。

 そこで大事なのは、素材としての身体を鍛練し、見事なものにしていくことです。そもそも、武道の鍛練を通じて武技を駆使できるように創出した身体を「武道体」と言います。もちろん普通の人と物質的に異なる身体になるわけではありませんが、概念的に区別することが必要です。この「武道体」は、「人間体」を基礎として創るものです。「人間体」とは、簡単には、それまでの人生の中で、人間的な動きを身に付けてきた身体のことです。人間として人間社会で育つ以上、必ずすべての人はそれぞれの社会に応じた「人間体」を創り出してきているわけです。さらに、「人間体」は「動物体」を素材として創られるものです。つまり、人間も生命の進化の中で獲得してきた動物としての構造を持っているのであり、その上での人間としての身体を持っているということです。

 ここまでを踏まえた私の現段階の理解としては、武技という特殊な「労働」の形態を磨き、身に付け、上達していくのと同時に、人体の構造の体系性を保ち続けることが大事なのだろうということです。「武道体」は、労働の一形態としての武技を身に付ける中で、武道的な動きができるようになった身体のことですので、人間の動きとしては特殊な形を取り続けます。その結果、ある部分は発展し、ある部分は発展しないため、人体全体の体系性を歪めることになり、怪我や技の衰退の原因になるのでした。そのため、武技を鍛練することと、人体の体系性を保つことには矛盾する面があります。したがって、この矛盾を解決するための鍛練が必要です。それが、素材としての「人間体」「動物体」を鍛練することなのだろうと思います。これが「夢講義」の中では、井上康生氏や高橋尚子氏の引退を題材に説かれています。

 私は当初、本当にそんな鍛練が必要なのか?と疑問に思いました。武技の鍛練だけやっていれば、より合理的で身体に負担のない動きを身に付けられるため、怪我をすることも衰退することも避けられると思っていたからです。しかし「夢講義」を再読する中で、この考えも変わりました。そもそも、普通の生活のレベルの「歪み」であれば、日常的な寝方や運動習慣、ストレッチ、たまに行く整体くらいで歪みは問題ないレベルになります。そのため、この点についてそれほど深く考えなくても良いのです。しかし、より高いレベルの武道家を目指すのであれば、それだけ高いレベルで身体を変形させる生活を続けることになるため、その分「人間体」「動物体」の鍛練についても、よく考えて実践しなければならないのです。

 武道の鍛練を続けていると、ついつい優れた技を身に付けることにばかり目が向いてしまいます。しかし、これからの鍛練としては、怪我をしない、衰退しないための鍛練としての、素材としての「人間体」「動物体」の鍛練も考えていかなければなりません。この点については、これからもっと考え、実践していきたいと思います。

3章:剣の精神とは「認識」の一つの在り方である

 2章では武技という身体の使い方という技について整理しましたが、武術ではなく武道を修業・修行する上では、身体・実体技を追及するだけでは片手落ちです。武道としては、心の働かせ方を極めること=精神的境地を求めることも重要だからです。

 そもそもの武道と武術の違いから押さえていくことが必要です。武術が実体技を極めることを主眼とするのに対して、武道は実体技を極めることとあわせて、観念技・精神技と言える境地を目指すものです。そのため、私が鍛練してきている兵法二天一流は「武道」として二天一流を極めることを目的としておりますので、やはり精神的境地を目指すものです。そのために、剣術における精神的境地とはどういうものか、学問的に明らかにし、継承していくことが必須です。幸い、当流の場合は『五輪書』をはじめとして流祖が複数の書物を残していますので、それらを題材にしつつ認識論的見地から、流祖が至った精神的境地とはいかなるものか、明らかにすることができると思います。

 では、この精神的な境地、剣の精神などと言われるものは一体なんなのかということですが、これも大きく「認識の一種である」という所から押さえていくことが重要です。そもそも認識とは、人間の頭脳活動(アタマの働き、ココロの働き)のことです。実体としては脳細胞の機能によるものですが、認識のおおもとになるのは五感覚器官(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)からの外界の反映です。五感覚器官から外界が反映されると、それが脳細胞の中で五感覚像として描かれます。これが、人間の頭脳活動である認識のおおもとになるわけです。動物の場合は、この単純な外界の反映像をもとに本能によって活動するわけですが、人間の場合はそうではありません。人間の場合は、外界と関係ない像を描くことができるからです。認識は外界の反映がもとにはなっているのですが、人間の場合はその外界の反映と関係なく活動できます。単純なところで言えば、外が暑くてもランニングするとか、寒いのにアイスを食べるとか、敵が迫っているのに逃げずに闘うとか、そういうことです。外界の反映をもとにしつつも、目的意識をもって活動できるのが人間の認識の特徴です。このような認識を人間だけが持つことができるようになったのは、進化の過程で樹上生活を送ることができたのが直接のきっかけということですが、この点は「夢講義」シリーズで繰り返し説かれているため割愛します。

 このような人間の認識は、さまざまな形で働かせることができます。その働かせ方はその人が送った人生の中身によって大きく変わってきますが、歴史上偉人と言われた人々は優れた認識活動を外界に実体化することで、実績を残してきたと言えます。たとえば、独創的な感性(認識)を芸術作品として実体化させたり、すぐれた戦略・戦術(認識)を用いて武将として活躍したり、アタマの使い方を極めて学問(認識)を体系化した哲学者など。そして、剣豪たちも、認識の働かせ方をある方向に極め、精神的境地に至ったと言えるでしょう。それが、命の奪い合いという極めて緊張度の高い場でも自在に闘うことができる、「不動心」といったものです。

 剣豪らが至った境地と言うと、常人には理解できないようなものとして考える事を放棄したり、伝書を読み込んで理解しようとするのが普通かもしれません。しかし、そうではなくこれも「人間とは何か」という視点から理解していくことが重要です。そして、人間の他の動物との最大の違いは、認識を持つこと(認識的実在)ということです。このように大きな点から剣の精神についても考えていくことで、流祖である宮本武蔵先生が著した『五輪書』をはじめとする書物をより深く理解できるのだろうと思いました。これらの内容について、まだ深く論じる実力はありませんが、それが可能となる実力は南郷先生の著作を通じて養うことができると確信しました。

4章:「人間とは何か」を踏まえた鍛練をすること

 当会において、人生を通じて兵法二天一流を極めていきたい、指導者になりたい、と考えている方はもちろんのこと、他流であっても武道を極めていきたい、文化としてしっかりのこして継承していきたいと考えている方には、「夢講義」シリーズを読むことを強くおすすめします。具体的な技術論や鍛練法が書かれているわけではありませんので、多くの武道家からスルーされているように思いますが、このような大きな視点から押さえることで、はじめて武道が人間の歴史の中でどのような境地に至ことができた文化なのか、それが現代社会の中でどのような意義を持つものなのか、明らかにできるのです。

-武道の理論学習記

© 2021 FUKAYA TOSHIFUMI